コリ梅

169-ノロジカの尻っぺたを追え!(1)

 

 

「どうしましょうかねえ?」

 担当の浜下耀司が鉛筆で後頭部のあたりをカリコリかきながら言った。

 

 我々2人がこの会議室に閉じこもって、はや2時間が過ぎようとしている。書類の散乱した白い長机は、正視に堪えないほどぐちゃぐちゃしており、ただでさえ重苦しい雰囲気を倍化させていた。灰皿の中は豪雪地帯で大量の電柱が荷崩れを起こしたようだし、1時間半ほど前に飲み干したコーヒーはカップの底で固まった絵の具のようになっていた。場の空気はどんよりとバーベルを飲み込んだかのように重かった。

 

「はあぁ……」

 俺は相槌のように大きなため息をひとつついて見せた。

 

 我々がこの企画を始めた当初はネタに困ることなど皆無だった。韓国の焼肉文化を日本に紹介する。韓国では日本よりも肉食文化が発達しており、カルビやロースだけでなく、さまざまに細分化された部位までを食べているのだ。最近日本でももてはやされているハラミだって、アンチャンサルという名前で普通に売られており、どころかカルメギサルという豚のハラミまでもが人気を集めている。

 

 豚肉というのは日本では牛肉の代用品程度の扱いでしかないが、韓国ではむしろ牛肉より人気があるといっても過言ではない。サムギョプサルという豚バラ肉の焼肉をはじめ、薬味ダレに漬け込んだテジカルビ、首肉を用いたモクサル、コプテギという豚の皮の焼肉も人気がある。

 

 第1回、第2回の特集では牛肉を大解剖した。第3回は豚肉を取り上げ、第4回は鶏肉、第5回は内臓関係の焼肉を取材した。どれも読者からの評価は高く、我々が掲げた企画は大成功であった。だがここに来てついに企画が行き詰まってしまったのだ。

 

 いや、もとはといえば第3回までで終わるはずだったのである。牛肉を2回やって、日本人には馴染みのない豚肉を紹介する。我々が考えたのはそこまでだった。ところがあまりの好評に企画の延長が決まってしまったのだ。

 

 牛、豚ときたから次は鶏で行こうと言ったのは俺だった。幸いにも韓国には鶏カルビ(タッカルビ)という料理があり、こいつがめっぽううまい。円形の鉄板でぶつ切りにした鶏のもも肉を豪快に炒めていく料理で、鶏肉と一緒にキャベツ、ニンジン、長ネギ、サツマイモ、韓国モチなどを投入し、甘辛いソースを怒涛のようにかけまわし、赤く赤く絡めていく。焼肉というよりはやけに豪華な鶏肉の野菜炒めという感じだが、猛烈に赤い外面が実に韓国らしいと評判がよかった。

 

 第5回の内臓関係は第1回、第2回で牛を扱ったときに、すでに触れていた部分の焼き直しであった。韓国には内臓関係の専門店があり、内臓関係の焼肉屋が集まる専門店街すらあった。その通りをクローズアップするような形で、むりやりにまとめていった。俺としては満足のゆく出来ではなかったが、それまでの特集で勝ち得た貯金もあり、読者からの反応はおおむね好評であった。

 

 だが、これ以上のネタは韓国全土をさかさまに振っても出てきそうになかった。第5回の取材に出る前に、俺と浜下耀司は雑誌社の編集デスクに、これを絶対最後にして欲しいと伝えてから出ていった。仕事がなければ生きてゆけないが、中途半端な仕事を淡々とこなしていくのは死んでも嫌だ。俺は時間をかけて企画の無理を懇々と説いたのだった。

 

「いやあ、よかったですよ。第5回。この勢いならもう1回くらいいけるんじゃないですかね。牛、豚、鶏、内臓ときましたから、次は馬なんかどうですかね。犬はちょっとまずいですが、馬肉だったら読者の興味も引けると思いますよ」

 

 編集デスクの佐々岡は能天気な笑顔でそうのたまってみせた。ヤツはまるっきりの無知だ。韓国では特定地域を除いて馬など食べないことすら知らない。

 

「浜ちゃん。やっぱり犬でいくのはどうだろう」

 俺は浜下に言った。

 

「いやあ、わかりますよ。八田さんがそういうのは。確かに犬肉食は韓国が古くから守ってきた文化のひとつですからね。日本のクジラ食文化と絡めたりすれば確かにひとつの企画としてまとまるでしょう。でもね。今までの流れからはまったく外れちゃうじゃないですか。牛食べて、豚食べて、鶏食べて、ホルモンまで食べてお腹いっぱいになったところで、読者は充分に満足しているんですよ。幸せなんですよ。そんな状態で、真剣な討論を交わそうと思う人はいないでしょ。お勉強したい人はいないでしょ。そっぽ向かれるだけですって」

 

「じゃあ、どうするんだよ」

「どうって……。それをだから今こうして考えているんじゃないですか」

 浜下は鼻と口の間に鉛筆をはさみ、唇をとがらせてみせた。

 

「…………」

「…………」

 我々はそのままきっちり10分間、静止したまま黙りこくった。

 

 重い沈黙を破ったのは浜下の携帯電話だった。振動モードにしてあった携帯電話は長机の上でガタガタと小刻みに震え、1時の方向にゆっくりと回転していった。

 

「もしもし」

 浜下は鼻の下にあった鉛筆を右手に持ち、白い長机の上に先っぽをコツコツと叩きつけ始めた。どうやら長机の上にそばかすを描いてやろうということらしかった。俺は眉間に3本シワを寄せると、横を向いてタバコに火をつけた。

 

「なんだって!」

 浜下は出し抜けな大声をあげた。ライターの炎を顔面近くに寄せていた俺は、思わず眉間に寄せた3本のシワを焼き焦がしてしまうところだった。俺はコントの出演者のように、まだ火のついていないタバコをぽろりと落とし、浜下の顔を見つめた。浜下は座っていた椅子を後方にはじき飛ばすような勢いで、がたっとその場に直立してみせた。

 

 目は爛々と輝き、力任せに口を引っ張りあげたような、模範的スタイルの笑顔をしていた。俺はこの突発的な状況にも、2人の芝居がかった呼吸がぴったり合っていることに内心満足をしていた。

 

「そうですか。それでは大至急その資料をファックスしてください!」

 浜下は鉛筆を持った右手をその場でぐるぐると回してみせた。

 

「大至急ですからね」

 浜下はそう念を押すと、携帯電話の画面を見つめながら、思い入れたっぷりにボタンを押して電話を切り、二つ折りの携帯をパタンと閉じて見せた。

 

 喜びの表情で直立している浜下。それをやや下方向から見上げる俺。ワンテンポ空白をおいたところで、どうやら次のセリフは俺が発するべきものらしいと気付いた。

 

「どうした?」

 俺は簡潔に尋ねた。

 

「やりましたよ」

 浜下が簡潔に答える。

 

「どうしたんだ?」

「韓国の赤井くんからの電話です。すごいネタが拾えました」

 

 赤井というのは韓国に住む留学生で、ソウルの大学院に通う傍ら、現地で取材の手伝いをするコーディネイターの仕事をしていた。韓国語が堪能なだけでなく、韓国のさまざまな文化に精通しており、我々のように取材で行く者にとってはかけがえのない存在だった。第5回の取材の際に、内臓関係の焼肉屋が集まる専門店街を提案してくれたのも彼である。

 

「ほんとか!」

 会議室の重かった空気は消化剤を飲んだかのようにすっきりと軽くなっていた。むしろ我々の興奮を予知してか、いくらか上気しているようにも感じられた。

 

「さっそく詳細をファックスしてもらいます」

「どんなネタだって?」

「ふふふ」

 浜下はにやりと笑ってみせた。

「…………」

 

 俺はやつのもったいつけた芝居に少しうんざりしながらも、口にたまったつばをゴクリと飲み込んでみせた。浜下は先ほどすっとばした椅子を後ろ手で引き寄せ、ゆっくりと座ると、机に両肘をつき、顔の前で手を組んでみせる。

 

「江原道の奥地で幻の肉を食べられるそうです」

「幻の肉……」

「はい。赤井くんもその情報は初耳だとのことですが、江原道ではノロジカの尻肉を食べているそうです」

「ノロジカの尻肉……。ふむ、鹿肉ときたか」

「ごくごく限られた人しか口にできない幻の肉だそうですよ」

 

 浜下は幻の肉というのを強調した。

 

(2)に続く

 

20070305

 

 

 

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