コリ梅
120-慶州南山カルグクス伝説(5)
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しばらく歩いたところに、ぽつんとひとつの民家があった。木々に囲まれた小さな家だ。藁を葺いた屋根に、白く塗られた壁。古い伝統的なつくりの家であった。 老人と夫婦の後について中に入ると、少し広めの部屋に5人の男女が座っていた。先客がいるということに少し驚いたが、よく考えるとここはカルグクスを出す店なのだから、それも特別なことではなかった。だがこの5人も断崖絶壁を飛んできたのだろうかと思うと、それはいかにも不思議なことに思えた。 少し薄暗い中、車座に腰をおろすと、一同はそれぞれ顔見知りのようでぽつりぽつりと挨拶などを交わし始めた。老人は他の人から先生と呼ばれており、その場では1番の年上で一目置かれた存在であるようだった。和やかではあるものの、静かな雰囲気で会話も少なく、一堂は何かをじっと待っているようだった。僕は隣に座っている老人が状況を説明してくれるのを待ったが、老人にはとくにその気はないようだった。 やがて、会話がぷつんと途切れたとき。 部屋の障子がすっと開いた。全員の視線がそちらに奪われる。 「みなさま、大変お待たせ致しました」 丁寧なおじぎとともに現れたのは、和食の料理人のような格好をした、まだ高校生くらいの若い女の子であった。 「準備ができたようだな」 老人が言った。 「はい」 女の子は小さく頷くと、また静かに障子の向こうへと姿を消した。 女の子の登場によって部屋の雰囲気は一変していた。もともと何かを待つような雰囲気ではあったが、それがどこか高揚したものになっていたのだ。誰しもが、ほんのしばらく後に訪れる幸福を心待ちにしているといった印象。それはまるで誕生日の子どもがプレゼントをもらう瞬間を待ちわびているといった、極めて純粋な期待感に包まれていた。 「待たせたの」 老人が少しだけ僕のほうを見ていった。老人の言う、うまいカルグクスがついに出てくるのであろうと思われた。 もう1度すっと障子が開くのと、陶然とした甘い香りが鼻に届くのとほぼ同時であった。胸の底をときめかせるふんわりとした香りが、一瞬で部屋中にゆきわたる。女の子は両手に白い大皿を抱えており、どうやらそれが最高にうまいカルグクスのようであった。 まず老人の前に大皿が置かれ、ついで僕の前に皿が置かれた。 僕はそれをみて、ひどく驚いた。 「こ、これが……」 「そうじゃ。それが最高のカルグクスじゃ」 僕は自分の目を疑った。それはどう見てもカルグクスなどではなかった。 「これがカルグクスだというのですか?」 「ほっほっほ」 老人は愉快そうに笑った。 女の子は障子の向こうを行ったり来たりしながら、忙しげにカルグクスを配膳してまわる。女の子が両手に抱えて持ってくる大皿は、やがて全員の前に置かれ、女の子も一同の間にちょこんと収まった。 「ゆきわたったかの。じゃあ、食べるとするか」 老人が言った。 僕の目の前にあるものは、カルグクスとしては本当に異形な代物だった。白い大皿に盛られているのは、まず、だし用の昆布が大きく1枚。そしてその上に乗せられているのはどう見てもただの大根であった。 よく煮込まれた大根。韓国の大根は日本のものよりも少し太い大根が多い。直径15センチほどの大根が、これまた直径と同じくらいの高さに切られて煮込まれている。飴色に輝く大根はいかにもだし汁が染み込んでいてうまそうであったが、その大根のほかには何もないのだ。大皿の上に昆布が敷かれ、巨大な大根の煮物を乗せただけ。これのどこがカルグクスなのだという気持ちよりも、ただただ度肝を抜かれた。 「いいか、これはこうして食べるのだ」 驚いて固まった僕を見て老人が言った。老人は箸を取ると大根のふちに当て、静かに真ん中から断ち割った。柔らかく煮込まれた大根は、まったく抵抗なしに箸を飲み込み、やがて絶えきれぬといった風で半分に割れていった。それと同時に、中からはどっと液体があふれだし、ついで白くつやつやした麺が流れでてきた。 「ああっ!」 僕は叫ばないではいられなかった。そうだ。この大根こそがカルグクスを盛る真の器であったのだ。よく煮込まれた大根の中に詰め込まれたカルグクス。それが箸で割ることによってあふれ出してきたのである。 僕はそれを見ると、ただちに自分の箸を取った。僕は老人のしたように大根を中央から箸で割り、中に隠れていたカルグクスを取り出した。女の子が障子を開けたときに流れ込んできた香りが、さらに凝縮されて鼻を襲う。こんなにも気持ちをかきたてる料理がほかにあるだろうか。僕はすぐさま箸で麺をすくいにかかった。 大根の裂け目から汁が流れだして大皿を8分目まで覆う。僕はその汁に浸かった麺を箸ですくい、口元で一気にずずっとすすった。瞬間的に感じたのは、えもいわれぬ大根の甘味であった。そこへ昆布や煮干など複雑に絡み合ったうまみが重層的に加わっている。麺も舌触り、のど越しともに素晴らしいものがあり、とくに歯に感じる柔らかな抵抗感は抜群であった。また麺そのものに旨味がある。よく実った小麦の穂を彷彿とさせるような力強い麺の味だ。具は特に入っておらず、ときおりピリっと感じる唐辛子と、香ばしさを添える白ゴマがだけがすべてであった。 食べ終わるまでの時間は疾風怒濤のように過ぎていった。気がつくと僕は、麺はおろか器になっていた大根や下に敷かれていた昆布までをもきれいに食べ尽くしていた。大根もまた素晴らしい味だった。よく煮こんだ大根を、カルグクスとともに食べるとこれがまたうまい。どこか心の底を和ませる味。初めて食べるのに、懐かしいと感じずにはいられない味だった。 「どうだ。うまかっただろう」 老人が横でにっこりと笑っていた。 「はい、うまかったです」 僕はハンカチで汗を拭きながら答えた。 「信じられないうまさでした」 「そうかそうか」 老人は僕を見て目を細めた。 カルグクスを食べ終えて、一同はその家を後にした。女の子だけがそこに残って後片付けをしていくようだったが、特にその家に住んでいるというわけでもなく、片付けをしたら自分も帰るということのようだった。 僕たちは麓への道を一列に並んで歩いた。途中来た時と同じように、落ち葉クッションを目掛けた落下式のルートがあったが、僕も今度は人の手を借りずに飛び降りることができた。見ていると、全員がためらいなしにひょいひょいと飛んでいくのだった。 「お疲れさんだったな」 麓のバス通りに出たときに、老人が言った。 「いえ、素晴らしい体験でした。本当にうまいカルグクスです。感動しました」 僕の正直な気持ちだった。 「だが、日本には紹介できんだろう」 確かにそうだ。あの山道を正確に伝えることは不可能だし、そもそも危険な落下式のルートをガイド本が紹介するわけにはいかない。僕だってもう1度行けといわれたら、無事にたどり着く自信はない。道案内なしには誰も行けない場所だろう。 「そうですね。ガイド本には載せられませんね」 それを考えると、僕が日本に伝えるべきは、おかしな欠点が少ないと老人が表現したあの店であるのだ。仮にそれよりもはるかにうまいカルグクスを出す店があったとしても、それは仕方ないことなのだろう。 「やっぱりあの店を紹介するよりほかないようです」 「そうだろうな。だが、あのカルグクスを食べて、韓国のカルグクスがその程度だと思われるのは心外だ。わかるだろう」 「ええ、今ならわかります」 「カルグクスはもっともっとうまいものなのだ」 「そうですね……」 老人と話しながら僕は思った。ガイド本には書けなくても、いつか必ずあの店の話を書こう。あの感動を書き記そう。慶州南山にあるカルグクスの伝説を、そして本当のカルグクスの味を、日本人すべてに伝えるのである。 カルグクスはもっともっとうまいものなのだ。 <終わり> 2005年02月15日 |
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