唐辛史
第7回‐胡椒代用品説‐
やはり先行研究の中でも最も重要なのは胡椒の存在である。唐辛子発見の歴史的経緯から見ても、唐辛子は胡椒の代用品であった。唐辛子はレッドペッパーであり、つまり赤い胡椒。そういった認識であったのだから、唐辛子の普及を胡椒と関連付けて語るのはいかにも自然なことであるように見える。
江戸時代の日本ではうどんに胡椒をかけて食べたとの記録もあり、現在我々が一味や七味唐辛子をうどんにふりかけて食べることから考えても、唐辛子がちょっと色の違う胡椒の様に認識されていたということはまず間違いない。
滋賀県立大学教授、鄭大聲は朝鮮半島において唐辛子は胡椒に代わる香辛料だったとし、胡椒や山椒、蓼、ニンニク、生姜などの香辛料が唐辛子を受け入れる素地になったとしている。
朝鮮半島に胡椒が知られるようになったのは高麗時代の中期、中国が元になってからのことである。1231年から元は朝鮮半島に侵入を繰り返し、1258年に高麗政府が交戦を断念。以後高麗王朝はその影響下で生活するようになり、結果として様々な物産が流入するようになった。またこの時期には焼酎、葡萄酒、砂糖なども同時に伝来している。
この後1392年に高麗王朝が滅び、李成桂によって李氏朝鮮が建国されると胡椒の輸入は日本へと移り変わった。胡椒は南蛮渡来の交易品であり、多くの場合オランダ船を通じ九州、もしくは対馬を経由して朝鮮に渡っていった。日本の中心地にはほとんど運ばれることなく、素通りするように朝鮮に渡っていったのだが、それには理由がある。
日本では当時仏教の影響によって肉食が禁じられており、胡椒への欲求はほとんどなかった。朝鮮でも同様に538年に肉食が禁じられたが、元の影響を受け肉食が復活し、李氏朝鮮では仏教にかえ儒教を受け入れる政策をとったため公式的にも肉食を禁止する理由がなくなった。肉食が始まると当然もっとおいしく食べる為の香辛料を要求するようになるのはヨーロッパの例を見てもよくわかる。
金柄夏によれば朝鮮は胡椒の種子を求める要請を1481年から87年までの6年間だけでも日本に対し11回、明に対し1回の計12回も行ったそうだ。また、1483年には対馬と共同で胡椒の種子を得るために南蛮大航海の計画も立てている。結局この計画は費用の関係で頓挫してしまったが、当時の胡椒にかける熱意が良く表れている。この熱意はコロンブスがアメリカ大陸で唐辛子を発見するに至ったその過程と非常に良く似ているではないか。
歴史に「もし」はありえないが、日本にも1274年、1281年の2回元が攻めこんできている。この時日本には神風が吹いて元の支配を免れたが、もしこの時に神風が吹かず元の影響下に置かれたとしたら、日本にも肉食の文化が根付き胡椒の要求が高まっていったとも推測される。そうすると当然南蛮からの交易品は日本で消費され朝鮮には行き渡らなかったことになる。唐辛子が胡椒の代用品として発達したのであれば、むしろ唐辛子を多用する真っ赤な料理は日本で生まれていたかもしれない。
<続く>