唐辛史

第4回‐日本伝来‐

 

九州地方に伝来した唐辛子は即一般化とはならなかった。それまでの日本の食文化体系にはなかった猛烈な辛さのため食物としては受け入れられず、主に南蛮渡来の珍しい観賞用の植物として捉えられてしまったようだ。むしろ毒草のひとつとして考えられたという話すらある。ヨーロッパでは胡椒の代用品として広まったが、日本では当時仏教によって肉食が禁じられていたため、胡椒の使用も一般的ではなく、よって新種のスパイスである唐辛子が受け入れられる下地がなかったとも言えるのだ。

 

日本は島国であり、縦に長い国土を持つ。16世紀の交通事情を考えれば、九州地方の片田舎に伝来した唐辛子が即座に都である京都まで伝えられていったとは考えにくい。文化的に需要のない珍しいだけの唐辛子は人の手を渡って各地に伝えられることもなく、九州地方を出ることはなかったのである。

 

このことをきちんと踏まえた上で、実は唐辛子の日本伝来は諸説あることを明かそう。唐辛子の日本伝来時期は現在まで大きく分けて4つの説が唱えられてきた。

 

1、1542年の南蛮渡来船。

2、1552年のポルトガル人宣教師。

3、1605年に朝鮮から。

4、1592〜98年の文禄・慶長の役の時に朝鮮から。

 

大事なのは年代だけでなく伝来した場所である。1、2は九州地方への伝来の記録で、3、4は京都への伝来を指している。その上で年代に注目すると1、2は16世紀中盤、3、4は16世紀末から17世紀初と見事に分かれているのがわかる。さらに入ってきたルートがポルトガルルートと朝鮮ルートに分かれることから、この2つは説としてバッティングしないのではないかという結論が導き出される。

 

つまり唐辛子はポルトガル人の手によって九州地方にもたらされ、いったんそこに留まり、その後何らかのルートで朝鮮半島に持ちこまれ、さらに朝鮮経由で京都に渡ったと考えられるのだ。このため日本伝来の史料は2つに割れ、現代まで混乱を持ち越すことになったのではないだろうか。

 

その問題を解くカギはやはり朝鮮にあるだろう。唐辛子が朝鮮の文献に始めて記載されるのは1613年。イ・スグァンの書いた「芝峰類説」がそうである。「芝峰類説」はいわば当時の百科辞典のようなもので、西洋、南方の国々を紹介した上で、キリスト教の事を初めて伝えた書として非常に貴重なものである。この書の食物部のところに次のような記述が現れる。

 

――南蛮椒には強い毒があり、最初倭国から入って来た。それで俗称を倭芥子(ウェギョジャ)という。時にこれを植えている酒屋でその猛烈な味を利用し焼酎に入れて売っているがこれを飲んで死んだものもいる。――

 

南蛮椒とは唐辛子のこと。倭国は日本である。倭芥子と呼んでいること、毒があると書いていることから考えても、九州地方から入ったとみてまず間違いない。では一体どのようにしてで朝鮮半島に入っていったのだろうか。

 

<続く>

 

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