唐辛史

第13回‐疫病の歴史‐

 

朝鮮において最も古い疫病の記録は『三国史記(百済本紀)』に登場する。百済の始祖温祚王(在位、前18〜後28年)の時代である。『三国史記(百済本紀)』には「百済温祚4年(紀元前15年)春に旱魃、水害、飢饉などの理由で疫病が発生した」と記述されている。

 

また日本での最も古い疫病の記録は、現存する日本最古の歴史書『古事記』に見える。崇神天皇(第10代天皇)の時代に疫病が発生したという記録がそうだ。崇神天皇の夢枕に立った大物主大神(おおものぬしのおおかみ)は疫病が自らの祟りであることを伝え、子孫である意富多多泥古(おおたたねこ)に自分を祭らせるように言った。崇神天皇が意富多多泥古を探し出し神主として三輪山に大物主大神を祭ると、疫病の被害は収まり国は平安を取り戻したという。

 

はるか昔の歴史書にも記されているように、人類の歴史とは、すなわち疫病の歴史と言っても過言ではない。人類は常に疫病の恐怖に怯え、闘ってきた。医学の発達した現在においても根絶できない病気は数多く、人類と疫病の闘いはまだ終わっていない。

 

伝染病に対し、我々が近代的な医学知識を武器に、まともに対峙できるようになったのはごく最近のことだ。伝染病学、免疫学、解剖学、疫学などの発展とともに、克服できるようになった病気も出始めてきている。中世に猛威をふるった天然痘は1977年ソマリアの天然痘患者を最後に根絶され、1980年にWHOが天然痘根絶を宣言している。しかし、その反面エイズやエボラ出血熱など未知の伝染病も発見されており、伝染病との闘いは終わりが見えないことを表している。

 

そんな近代的な医学知識すらなかった時代。李朝時代の医学書を見ると、そこには医学的な手法と民間信仰的な治療とが入り混じって紹介されているのがわかる。時の政府も疫病の被害が広まると同時に、詩ユという鬼神の怒りを鎮める儀礼を頻繁に行い疫病の被害を鎮めようとしていた。政府によって詩ユが行われたということは、疫病の被害に対し鬼神の存在を前提とした対策をたてているということであり、当時疫病が鬼神の影響であると広く考えられていたことを証明している。

 

もっとも詩ユが唯一の方策だったという訳ではない。政府は鬼神説を確信していたのではなく、詩ユを行うことによって疫病に苦しむ民衆の慰労、民心の安定などを求めたとも言われている。

 

実際に政府は現実的な手段をもって様々な救療施策を展開しており、例えば物価調節と飢民救済を目的とした賑恤庁をおいたり、伝染病の被害が広まった時には還穀(中央地方の官庁が貯蔵穀物を春に貸し出し、秋に利子をつけて返納させた制度)を免除したりもした。また治療用の薬剤を配布したり、その地域でとれる郷薬を採取するよう通達したりもしている。伝染病患者の隔離も行われており、むしろ救療施策は積極的に行われていたとみられる。

 

しかし、多くは伝染病が流行した後の事後措置に終わっており、予防を目的とした措置としては不充分であった。人口の約7〜10%を失うという甚大な被害を受けつつも、政府は万全の対策を講じることができず、死者は増える一方であった。政府をあてにできない民間では独自の予防法、治療法をもって対処していくよりほかなく、それはまさに民間信仰に依拠した手段だったのである。

 

その手段の中には唐辛子の使用も含まれる。唐辛子が鬼神を追い払う力を持つという信仰は現代まで伝えられているが、それは唐辛子が伝えられたこの時代に端を発する。歴史の浅い新種の香辛料である唐辛子は何故鬼神を追い払うものとして広く受容されてきたのだろうか。

 

<続く>

 

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