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釜山の歴史

 

釜山の歴史

 

釜山という地名が記録上初めて現れるのは1368年、高麗の恭愍王時代のこと。講究使の李夏生を対馬へ向けて派遣する際、白米千石を富山浦(プサンポ)から送ったという記述が残されている。1454年に書かれた『世宗實録地理志』にも「東莱富山浦」という記述が見られ、当時はまだ富山という字をあてていた。その後1486年に書かれた『東國輿地勝覽』を見ると「釜山は東平県にあり山の形が釜のようであるから釜山と呼んだ」と書かれており、この時期を前後して富山は釜山に変わったと見られている。

 釜山タワーの展望台から撮影した釜山市内

 

釜山にいつごろから人が住み始めたのかは定かでないが、影島区東三洞 、釜山鎮区田浦洞、東莱区漆山洞などから貝塚が発見されており、紀元前3000年頃には海沿い、川沿いを中心に人類が居住し始めていたと推定されている。釜山に関する最初の歴史的記録は『魏志東夷伝』に登場する。この『魏志東夷伝』には、3世紀前半の時点で釜山を含む洛東江下流域に12の小さい部族国家があったと記されている。その後6世紀頃までは伽倻からの政治的、文化的影響を受けつつも部族国家の群雄割拠する時代が続き、統一新羅の誕生をもって東莱郡と称されるようになった。

 高麗末から李朝時代の初めまでは人口も少ない閑散とした漁村に過ぎなかった。その釜山が都市としての機能を持ち始めたのは豊臣秀吉による文禄・慶長の役、韓国でいう壬辰倭乱(イムジンウェラン)を経て国防都市という新たな役割が付け加わってからである。1952年4月、小西行長率いる第1軍が釜山に到達したことによって壬辰倭乱は始まる。激しい勢いで戦禍が拡大していく中、このときの海戦において大活躍したのが李舜臣将軍であった。現在でも市街地の中心にある龍頭山公園には、この李舜臣将軍の銅像が置かれ、遠く日本の方向を見据えている。

 この後大院君の鎖国政策によりいったん釜山港は閉じられることになるも、1876年に締結された江華島条約によって再び開港するに至った。これを機に釜山には多くの日本人が住むようになり、同時に釜山港は韓国を代表する港湾都市として成長を遂げるにことになった。このとき釜山に渡った日本人が主に移り住んだのは、現在の龍頭山公園を囲むエリア。ちょうど地下鉄1号線南浦洞駅から国際市場方面に伸びるメインストリートにあたる。この地域の住所を光復洞(クァンボンドン)、メインストリートを光復路(クァンボンノ)と称するのは、太平洋戦争の終結をもって日本人支配からの光復(解放)を迎えたという意味でつけられたものだ

  

左から光復路、国際市場、釜田市場

1950年からの朝鮮戦争時には釜山は臨時首都の役割を果たした。このときは全国から多くの避難民が釜山に集まったという。このとき避難民が集まって自然的に発生した市場が現在の国際市場であり、釜田市場である。朝鮮戦争を経て釜山は直轄市となり、1995年からは広域市と名称が変更された。現在は人口383万人を誇る韓国第2の都市であり、また韓国一の貿易港としても知られる。釜山という地名が記録上初めて現れるのは1368年、高麗の恭愍王時代のこと。講究使の李夏生を対馬へ向けて派遣する際、白米千石を富山浦(プサンポ)から送ったという記述が残されている。1454年に書かれた『世宗實録地理志』にも「東莱富山浦」という記述が見られ、当時はまだ富山という字をあてていた。その後1486年に書かれた『東國輿地勝覽』を見ると「釜山は東平県にあり山の形が釜のようであるから釜山と呼んだ」と書かれており、この時期を前後して富山は釜山に変わったと見られている。

 

この文章を書くにあたり以下の資料を参考にしました。

 

<WEBページ>

釜山広域市文化観光情報システム

釜山広域市中区歴史文化観光情報システム

ヤフーコリア百科辞典[釜山広域市]の項目

<書籍>

釜山インフォネット出版企画チーム『港都釜山大探検』東洋文庫、2001年

 

 

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